武道の未来を拓く ~異なる文化や国の空手愛好者を一つに結びつける
国際武道人育英会 理事長 増田 章
1. 現代社会における空手への問い
相手の身体を攻撃する技を磨く空手は、現代社会においていかなる意味を持つのか。この問いは、空手を単なる伝統の保存、護身術、あるいは武道、そしてスポーツの一形態として理解する立場を超えて、武道の存在意義そのものを問うものである。確かに、空手のみならず武道の定義や意義は時代とともに変遷してきた。しかし、一般的に身体への攻撃という行為が暴力とも見なされ得る以上、その価値を現代社会の視点から再考し、より人間と社会に資するものとして捉え直す必要がある。
私がこの課題に取り組む理由は、空手の修練があらゆる年代の人々にとって生きる糧となり、人間的成長の手段となるべきだと考えるからである。さらに、多様な空手修練者が共有できる共通の基盤を築くことにより、空手愛好者を一つに結びつけ、空手全体の価値を高めることができると信じるからである。そして想像する。子どもから高齢者までが世代を超えて一つの理念と方法を共有し、未来を語り合いながら空手を行う姿を。その営みこそ、より豊かで幸福な社会の基盤となるだろう。かつての少年である老人が次世代に夢を託し、少年が老人に尊敬と感謝を捧げる。その循環こそが、「いかに生きるか」という人間の根源的命題に応える道である。
2. 極真空手をめぐる迷い
今日、世界に広まった極真空手もまた、その本質的価値を言語化できていない。武道なのか、スポーツなのか、あるいは護身術なのか。その定義は揺らぎ、説得力を欠いている。ここまま、多義的な価値を包含するままで良いのだという人達もいるかもしれない。だが、そこに普遍的かつより高い価値を提示できなければ、このまま、愛好者の心は迷い、そして分裂を繰り返していくだろう。私は、そこに確固たる価値を確立することで、その心を一つに結ぶ。もちろん多様な価値を取り込む寛容さを有しながらである。そのためには、改めて「極真空手とは何か」を問わなければならない。私は長年歩んできた極真空手を例に取り、その歴史と思想を批判的に検討する。ここでいう批判とは否定ではなく、より高次の次元へと昇華させる営みである。
3. 「真・善・美」による照射
本稿では、さまざまな角度から詳細に考究した結果を記述するのではなく、より大まかに極真空手を様相を述べるにとどめたい。そのため、極真空手が掲げる「真剣勝負」「最強」「礼節、謙譲」と言ったスローガンを古代哲学者、プラトンが掲げた理想である「真・善・美」の観点から吟味したい。具体的には「真剣勝負」を「真」に照らし、「最強」を「善」に「礼節と謙譲」を「美」の観点で照射に吟味したい。
[真]:極真空手の競技を「真剣勝負」とする向きや強靭な肉体を強調する向きが真」の証明だとすれば、その勝敗は確かな判断基準によってなされているかを証明しなければならず、また肉体的強さの誇示が普遍的な真理とは到底考えられない。真とは、誰もが納得し得る普遍的確かさ証明しなければならない。
[善]:極真空手が掲げる「最強」は、他流派や他武道と戦った場合に必ず勝つ、という草創期に宣伝のために掲げたスローガンを踏襲しているだけだ。だが「強さ」とは、自らが設定した目標を達成するために、自らを信じ、改善し続けるために必要な意志の力のことである。言い換えれば、自らを批判的に検証しつつ、理想に向かって自己実現していける能力だと言っても良い。また他者の意志の力の発揮を承認することと支援することが「善」である。そのことを理解できるなら、「最強」というような馬鹿げたスローガンは修正されていくはずだ。そして、より重要なことは、理念の高次化だと気づくだろう。一方、理念的な事柄は、いつも抽象性を伴う。ゆえに理念も科学的な面から、そして実証的な面から批判的に吟味される必要がある。
[美]:極真空手は礼節並びに謙譲の美徳を重んじるが、それは閉じた共同体の規範にとどまることで、その形式を実施するという行為が目的化する。そのことによって人間性の抑圧が生じ、その抑圧が、しばしば仲間割れにつながる。そのことは多くの武道愛好者が、決して本質的な「美」の形態を理解していない証左である。「美」の本質とは、自己の生命力を発揮し、かつ他者の生命を活かし尊ぶような行為の中にある。
4. 美意識という羅針盤
補足を加えれば、私の考えでは、美意識とは生命力を顕現させ、他者と響き合い、共に発展する力である。礼法や型は形式にすぎない。そこに生命の躍動と相互尊重の意志が宿るとき、初めて「美」は現れる。美は羅針盤のように私たちを導き、武道もスポーツも新たな地平を拓くのである。
5. 同情と共感
極真空手のみならず、日本人には判官贔屓という感性があるようだ。そのこと自体は決して否定されるものではない。だが、競技の判定や物事の善悪を判断する際、そのことが本質を見誤る原因となる。例えば、苛烈な修練に共感する。身体が劣るものが体格に勝る外者に戦いを挑んでいく姿に共感する。しかし、その本質は「同情」に基づく感情的反応にすぎない。同情をマックス・シェーラーは「他者の感情を直接的に共有する態度」と述べている。しかしながら、それ自体は普遍的な美の感覚に依拠する共感ではない。また、同情は大衆を動かす力を持つが、時に迎合や扇動に転化する。私は、世界中に伝播した極真空手が、今後グローバル社会でより高い価値と評価を得るには、同情による共感ではなく、人間存在の根源に触れる美意識に基づいた共感だ。
6. 公正という視点
極真空手の新たな価値を切り拓く鍵は「公正」である。生命一つひとつを公正に扱うことが、真と善と美というような体現不可能とも思える理想に人間を近づかせるための羅針盤となるだろう。そして公正という志向性は優れたスキルを見抜き、それを創出するためのセンサーにもなるだろう。ここでいうスキルとは、身体の操作技術のみならず、心の運用、戦術の運用、さらには他者との関係性の調整を含む多種の能力の総体を指す。ゆえに競技は他者とスキルを磨き合う手段である。それゆえ、他者と交流する競技会という場は、単なる勝敗の場ではなく、他者に対する責任を学び合い、感謝を実感する場なのである。
7. 「道(DO)」という思想
日本の伝統文化における「道(DO)」は、矛盾を抱えながら自己を省み、他者と向き合う営みである。自己を敬い、他者を敬う態度は美意識の具現化にほかならない。茶道も武道もその一つの形である。他方、スポーツもまた、人を楽しみや競技を超えて結びつける力を有している。両者は異なる美意識を背負いつつも、互いに響き合い、高め合うことが可能である。
8. 拓心武道とHITTING(SPORTS)と武道人(BUDO MAN)宣言
以上を踏まえ、私は空手の価値を高めるために、武道とスポーツの美意識を相互補完的に結びつたい。そのことにより、より普遍的な価値を空手に付与したい。その理念が「拓心武道」である。そして、その理念の具現化のための枠組み・基盤として「HITTING (SPORTS)」である。
枠組みの詳細は別紙にて説明することにするが、最も重要な点として理念構築のプロセスを本稿で説明した。次に方法論的基盤としてHITTING (SPORTS)という枠組み提言したい。その方法論も詳細なルールの草案がある。それも別紙で示してある。
繰り返すが、私が辿り着いた理念のゴールは、異なる文化や国の空手愛好者を一つに結びつけることだ。そして共に人間としてより善い生き方と、より確かな幸福感をしていきたい。
また、私は共にゴール(理想実現)を目指す仲間を武道人(BUDO MAN)と私は命名した。武道人は、理念を共有し、勝敗を超えて連帯する者のことである。また武道人とは平和構築のために格闘競技を役立たせることに尽力する者の名称だ。
ここに私は、空手のみならず、格闘競技を行う者の連帯を呼びかけたい。その連帯の先に、空手武道の文化的公共財としての新たな可能性がある。
9. 新しい倫理と平和
競技が「自己を高め、他者を高める営み」となるとき、新しい倫理が芽生える。それは外部から押し付けられる道徳ではなく、内発的な自制と尊重の意識である。このとき武道は、平和を築く哲学へと昇華する。
10. 結論~未来への使命
本稿では、現代社会における武道の意義を「真・善・美」「美意識」「公正」「道」といった観点から検討し、その未来像として「拓心武道」と「HITTING」を提示した。
拓心武道とは、人を傷つける手段ではなく、人を生かす道である。武道は人間の生を豊かにし、共に生きる道を切り拓く力を秘めている。これを未来の灯火とすること。それが私の使命だと思っている。





