北極星を見ながら~人生という航海の中で〜1回(全3回)
以下の文章、「北極星を見ながら~人生という航海の中で」は、内容がやや長いため、三回に分けて掲載します。
第一回では、父の老いや恩師との別れを通じて考えるようになった「人生という航海」について書きます。
第二回では、その航海の中で自分の方向を確かめる「北極星」と、「武道人」という言葉について考えます。
第三回では、武道を学ぶ意味をあらためて見つめ、最後に「感謝できる人生」とは何かを考えます。
三回を通して、一人の人間として、そして一武道人として、どう生きるかを綴ります。
第1回 人生という航海
~父の老いから考えたこと
以前、父の日に、父への思いを短い詩にしたことがある。
父の日に思う
私は父の日に思う。
父は、私にとって
最高の恩人の一人である。
そして私の人生には、
多くの恩人がいた。
未熟な私に
多くを教えてくれた先生たち。
私と仲良くしてくれた友人たち。
私が悩みの中にいた時、
支えてくれた友人たち。
情熱があふれていた時、
ともに歩いてくれた人たち。
そんな中で出会った妻。
そして、
私の心を磨いてくれた
多くのライバルたち。
縁あって出会った、
すべての人たち。
その一人ひとりが、
私の人生を
意味あるものにしてくれた。
私は父の日に思う。
父への感謝は、
すべての人たちへの感謝へと
広がっていく。
私は、
そのすべての人たちに
心から感謝したい。
この詩を書いた時、私は父への感謝を書こうとしていた。しかし、書いているうちに、その感謝は父だけにはとどまらなかった。
先生、友人、妻、ライバルへと、その思いは広がっていった。そして、縁あって出会った多くの人たちへも広がった。
今になって振り返ると、この短い詩には何かがあったように思う。現在の私が人生について考えていることの萌芽である。
父のことを思うと、幼い頃のいくつかの情景が浮かんでくる。父は、よく私を車に乗せてくれた。そして、山や川や海へ連れていってくれた。
私は、父の運転する車に乗ることが好きだった。どこへ行くのか分からなくても、車に乗るだけで心が弾んだ。今でも、あの頃の景色や空気を思い出すことがある。
思春期に入り、私が道を外れそうになった時のことも覚えている。父は、力で私を押さえつけるようなことはしなかった。
私のために奔走し、時には口うるさいことも言った。普段の父は、決して寡黙な人ではなかった。しかし、私が本当に苦しい時には、黙って見守ってくれていた。
当時の私は、そのありがたさを十分には分かっていなかった。自分のことしか見えていなかったのである。父が何を心配していたのか、考える余裕もなかった。
しかし、自分も親となり、子どもの将来を案じるようになった。そこで初めて、少しずつ父の気持ちが分かるようになった。
あの時、父はどれほど心配していたのだろう。どれほど言いたいことを飲み込み、私を見守っていたのだろう。今になって、その優しさが身にしみる。
父は十五年ほど前に体を悪くした。それ以来、半身を思うように使うことができない。そこに老いも重なった。
今の父の姿は、幼い頃に見ていた父とは大きく違う。あの頃の父は車を運転し、私を山や川や海へ連れていってくれた。
私よりはるかに大きく、強い存在にも見えていた。その父が今、身体の自由を失い、老いていく。私は、その姿を目の前で見ている。
時間というものは、人の身体を確実に変えていく。その当たり前のことを、今は以前とは違う重さで感じている。
そして、それは父だけのことではない。若い頃に教えを受けた恩師たちも、一人また一人と亡くなっていった。
かつては、いつでも会えるように思っていた人たちがいる。しかし今は、もうこの世にはいない。
若い頃の私は、死をもっと遠い出来事のように感じていた。もちろん、人はいずれ死ぬ。そのこと自体は知っていた。
しかし、それは知識として知っていただけなのかもしれない。今は違う。
父の老いを見つめ、恩師たちとの別れを重ねてきた。そして、自分自身にも老いを感じるようになった。
死というものは、以前よりはるかに身近になった。それは、死を恐れるようになったという意味ではない。
人生というものには、確かに終わりがある。そのことを、以前より現実のものとして感じるようになったのである。
だからこそ、私は一つのことを考えるようになった。残された時間を、私はどう生きるのか。
人生という航海がいつ終わるのかは分からない。ならば、その時まで自分はどの方向を向いて生きるのか。
人間として恥じない生き方を、最期まで続けられるのか。父を見ながら、私はそんなことを考えるようになった。
人生という航海
人が生きるということは、船で海を航海することに少し似ている。人はそれぞれ、自分なりの目的地を思い描いて船を出す。
成功したい。勝ちたい。強くなりたい。豊かになりたい。
仕事を成し遂げたい。家族を幸せにしたい。自分の夢を実現したい。
目指す場所は、人によって違ってよい。私は、そのような目標を持つことを否定しない。
むしろ、目的地があるからこそ、人は船を出すことができる。荒れた海にも向かうことができる。
私自身もそうだった。格闘技や武道の世界に入り、強さを求めてきた。そして、勝利を求め、自分なりの理想を追い続けてきた。
目標があったからこそ、困難に耐えられたことも多い。しかし、自分のこれまでを振り返ると、人生は海図の通りには進まなかった。
着くことのできた港もある。着けなかった港もある。途中で、目指す港そのものが変わったこともある。
嵐に遭ったこともある。進む方向を見失ったこともある。自分では正しい方向へ進んでいるつもりだった時もある。
しかし、後になって振り返ると疑問が残ることもある。本当に正しい方向だったのだろうか、と。
おそらく人生とは、そのようなものなのだろう。
航海が終わる時
そして、もう一つ忘れてはならないことがある。人生という航海が、いつ終わるのかは誰にも分からない。
私は以前、死を航海の最後の港のように考えていた。しかし、よく考えれば、それは少し違う。
私たちは、死という港を目指して生きているわけではない。人は、死ぬために生きるのではない。
私たちは、それぞれ自分なりの目的地を目指して船を進めている。しかし、その港にたどり着く前に航海が終わることもある。
まだ目的地へ向かっている途中かもしれない。それでも、突然、航海そのものが終わることがある。それが死なのだと思う。
だから、死とは誰もが目指す最終目的地ではない。いつ訪れるか分からない、人生という航海の終わりである。
その先に何があるのか、私には分からない。もしかすると、そこから別の世界が始まるのかもしれない。
しかし、それについて今ここで語るつもりはない。私が考えたいのは、もっと手前のことである。
その航海が終わる時まで、自分はどう生きるのか。私が考えたいのは、そのことである。
何を成し遂げたか、それだけではない
人生という航海がいつ終わるか分からない。そうであるなら、人生の価値を目的地だけで考えることはできない。
成功したか。勝ったか。夢を実現したか。どれだけ遠くまで行けたか。
もちろん、それらは大切である。私自身、これからも目標を持ち続けるだろう。
しかし、それだけで人生の価値が決まるわけではない。目指した港に着けなくても、その航海に意味はある。
逆に、望んだ港にたどり着いた場合も同じである。その過程で大切なものを失っていたなら、良い航海とは言えないだろう。
私は今、そう思う。それでは、何が大切なのだろう。
私が今、大切だと感じていることがある。航海が終わるその時まで、人として恥じない方向を向くことである。
人間として恥じない方向
ここでいう「恥じない生き方」とは、間違いのない人間になることではない。人は間違える。
私自身も、これまで多くの間違いをしてきたと思う。正しいと思っていたことが、後で違うと気づくこともある。
人を傷つけたこともあったかもしれない。自分の未熟さに気づくこともある。
だから、人間として恥じないとは、一度も道を間違えないことではない。大切なのは、間違いに気づいた時である。
自分が間違っていたなら、その事実から目をそらさない。進む方向がずれていると感じたなら、もう一度舵を切り直す。
そして、できる限り人として恥じない方向へ戻ろうとする。私は、それが大切なのだと思う。
そう考えた時、人生には目的地とは別に必要なものがある。それが、私の考える北極星である。
〜次回は、その「北極星」とは何かを考えてみたい。次回掲載は木曜日の予定。




