第2回 人生の北極星
「武道家」から「武道人」へ
前回、人生には目的地とは別に必要なものがあると書いた。それが、私の考える「北極星」である。
北極星
昔の航海者は、星を見ながら自分の位置を確かめたという。そして、進む方向も星によって判断していた。
その中でも北極星は、方向を知るための重要な目印だった。北極星そのものが目的地なのではない。
北極星へ向かって船を進めるわけでもない。どこへ行くかは、自分で決める。
人それぞれ、目指す場所は違っていてよい。しかし、自分がどこにいるのかを知るには基準が要る。
そして、自分がどちらを向いているのかを知るにも基準が要る。人生も同じなのではないかと思う。
何を目指すかは、自分で決めればよい。成功を目指す人もいる。家族との幸福を大切にする人もいる。
勝利を求める人もいる。誰かを支えることに価値を感じる人もいる。行き先は違ってよい。
しかし、その途中で確認しなければならないことがある。自分は、人として進む方向を間違えていないか。
そのことを確かめるための基準は必要なのではないか。私にとって、それが人生における北極星である。
武道家への憧れと違和感
私は長い間、格闘技や武道の世界に身を置いてきた。振り返れば、幼い頃から武道家という言葉に憧れがあった。
「柔道家」「空手家」「武道家」という言葉には特別な響きがあった。それは、はっきりした理屈を伴うものではなかった。
ただ、強さを求め、自分を鍛える人の姿に心を惹かれた。一つの道を歩いていく人間に魅力を感じたのである。
もし、その響きに何の魅力も感じていなかったらどうか。私は柔道や空手という道へ進んでいなかったかもしれない。
だから私は、武道家への憧れそのものを否定するつもりはない。むしろ、それが私を武道へ導いた力でもあった。
しかし一方で、いつの頃からか違和感も感じるようになった。「武道家」という言葉に対する違和感である。
それがいつ始まったのかは、今となってはよく分からない。ただ、武道家という言葉には権威性が伴うことがある。
特別な人間であるかのような振る舞いも見られる。私はそこに、どこか居心地の悪さを感じてきた。
もちろん、それは武道家を否定するという意味ではない。武道に真摯に向き合い、尊敬できる人は多くいる。
ただ、武道家という立場が前面に出ることがある。すると、一人の人間としての姿より肩書きが強くなる。
私はそこに、なじめないものを感じていたのだと思う。
「武道家として見られる自分」
ところが、その私自身も武道の世界を歩み続けた。そして、実績を重ね、多くの人を指導する立場になった。
そうなると、別の思いも生まれた。ここまで続けたのだから、武道家として自己を確立したいと思った。
それが、自分が生きてきた証ではないかとも考えた。周囲からも、武道家として見られるようになった。
ならば、その立場を貫く必要があるのではないか。指導者である以上、武道家らしく振る舞うべきではないか。
そんなことを考えるようになった。武道家という自己像を、自分でも引き受けようとしたのである。
しかし同時に、その自己像との間には埋めきれないものがあった。一人の人間としての自分との間に、何か違和感があった。
武道家として見られる自分をつくること。それと、一人の人間としてどう生きたいかということ。
その二つは、必ずしも同じではなかった。私は、その違和感を長い間、完全には解消できずにきた。
三十年前の直感
振り返れば、「武道人」という言葉を意識したのは三十年ほど前になる。その頃は、今のように意味を説明できなかった。
ただ、武道家という言葉だけでは足りないという感覚があった。自分が求める人間のあり方を表せない気がしたのである。
それは、武道家への憧れを捨てることではなかった。武道家を否定したかったのでもない。
むしろ、自分を導いてくれた武道を大切にしたかった。その一方で、枠組みだけでは表せないものも感じていた。
それから三十年近い時間が過ぎた。武道を続け、多くの人と出会い、組織もつくった。
勝敗も経験した。喜びも失敗もあった。人と衝突したこともある。別れもあった。
家族との時間も重ねてきた。そして今、老いた父を前にしている。
恩師たちとの別れも重なった。自分自身の老いも感じるようになった。
人生の航海には終わりがある。そのことを、以前より現実のものとして感じている。
そうなって初めて、昔の違和感が少し見えてきた。あの時に感じていたものの意味である。
武道人という言葉
今の私にとって、「武道人」は上位者を意味する言葉ではない。武道家より優れた者を示す言葉でもない。
新しい称号でもない。人間として完成した者を意味する言葉でもない。
「私は武道人である」と誇るためのものでもない。むしろ、自分に問い続けるための言葉なのだと思う。
武道を学んできた一人の人間として、自分はどう生きるのか。その問いを持ち続けるための言葉である。
自分の道を大切にする。同時に、他者にも他者の道があることを認める。
自分の強さを求める。しかし、他者の尊厳を忘れない。
勝つことを求めても、勝利だけを人生の価値にはしない。自分の考えを持っても、それを絶対にはしない。
そして、自分自身の弱さや未熟さから目をそらさない。私は、そう生きようとする人を「武道人」と考えている。
一武道人として
だから今の私は、「武道家として完成したい」とは考えていない。むしろ、一武道人として生きていきたいと思っている。
私は、この「一」という言葉を大切にしたい。武道人という言葉まで、新しい権威にはしたくない。
肩書きにもしたくない。誰かより上に立つための言葉にもしたくない。
あくまで、一人の人間として武道を学びたい。そして、武道を通じて自分の生き方を問い続けたい。
もし進む方向を間違えたと感じたなら、北極星を見る。そして、もう一度、自分で舵を切り直す。
私にとって武道人とは、完成した人物ではない。そのように生きようとする人間の姿勢なのである。
――次回は、武道を学ぶ意味と、人生の最後に何を思いたいのかを考えてみたい。




