北辰庵
星を見つめ、道を考える。

北辰庵は、増田章が武道・思想・人生について考察する場である。 完成した答えを示すことよりも、問いを持ち、考え続けることを大切にしている。 「増田章とAIとの対話的思考実験」も、その探究の一つである。

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増田章とAIとの対話的思考実験 思考の組手

 

「人間性とは何か」という問いから始まった、増田章とAIとの対話的思考実験である。善悪という二項対立を超え、人間性の豊かさを「復元力」という視点から考える。対話を通じて、自我、自己、倫理、社会、そして武道との関係を探っていく。

人間性の豊かさと復元力

増田章

これから思考の組手を始めたいと思います。今日のお題は「人間性とは何か」です。

私は、人間性というのは良し悪しや善悪ではないと思っています。そのような二項対立ではない。

善にも悪にもなりうる。良くも悪くもなりうる。そういった可能性を持った存在であることが、人間性の本質ではないかと思うのです。

あなたはどう思いますか。

AI

私も、その捉え方には重要なものがあると思います。

特に、「人間性=善良さ」としてしまわない点です。

一般に「人間性がある」「人間性が豊かだ」という言葉は、優しさや思いやりを指しがちです。しかし、それでは人間性の都合のよい側面だけを取り出すことになります。

人間は、思いやることもできます。同時に、嫉妬し、憎み、欺き、傷つけることもできます。

しかも重要なのは、同じ人間がその両方になりうるということです。

ですから、ひとまず、

「人間性とは、善や悪そのものではなく、善にも悪にも展開しうる人間固有の可能性の総体である」

と表現できそうです。

ただ、ここでもう一段考えたいことがあります。

「可能性」だけで人間性を定義してよいのか、という問題です。

人間には、自分の衝動や欲望を認識し、そこから何を選ぶかという働きもあります。

そう考えると、人間性とは、矛盾する可能性を内部に持ち、その矛盾を自覚しながら選択する存在のあり方、とも考えられるかもしれません。

増田章

大まかに言えば、あなたの前提と私の考えは同じようなものです。

そこから話を進めるならば、人間性とはそのようなものであるからこそ、人間はその人間性を土台にして、自我というものを生かしていかなければならない。

それが人格にもなるし、人生にも影響すると思うのです。

私が最近よく例えに出すのですが、人間性を土台にして自我を生かしていくとしても、北極星のような方向性を自覚する何かの基準が必要です。

それを明文化すれば、倫理ということになるのかもしれません。

人間性は、善や悪を絶対的に方向づけるものではない。

しかし、人間性の中にある何かが倫理という方向性を定め、自我、そして自己というものを進展させていくように思います。

そうでなければ、人間性というものが、あてもなくさまよい続ける船のような存在になってしまうような気がするのです。

拙い例えで申し訳ありません。あなたはどう思いますか。

AI

その例えは、かなり的確だと思います。

重要なのは、人間性そのものを倫理とは見ていないことです。

人間性は善悪どちらにも向かいうる土台であり、可能性の場です。そこに自我が働き、選び、方向づける。

その積み重ねが人格となり、人生の形にもなっていく。

ただ、ここで一つ考えたい点があります。

増田さんは「人間性の中にある何かが倫理という方向性を定める」と言われました。

私は、この「何か」が今回の議論の核心になると思います。

倫理が完全に外から与えられるものなら、法律や戒律に近くなります。

逆に、すべてが自我から作られるなら、倫理は単なる好みや都合に流れやすくなります。

そこで考えられるのは、人間性の内部には、善そのものではないが、方向を求める働きがあるのではないか、ということです。

人間には、自分と他者との関係を評価し、自分のあり方を問い直す能力があります。

この能力自体は善ではありません。しかし、それが倫理を生み出す根になる可能性があります。

船の比喩で言えば、人間性は海であり、自我は舵を取る者である。

自己は航海を続ける船そのものになる。倫理は北極星であり、航路を判断する基準になる。

そのように整理できるかもしれません。

増田章

あなたの考えは面白いと思います。

しかしながら一点だけ、あなたは人間性を可能性の場だとしました。そして人間性を海に例えた。

しかし私は、人間というものが可能性の場であり、また海でもあると思います。

AI

はい。その修正の方が自然だと思います。

私の先ほどの整理では、「人間性」と「人間そのもの」を少し近づけすぎました。

可能性の場であるのは人間そのものであり、人間性は、その人間を成り立たせる根本的な性質の一つ、と考えた方がよさそうです。

つまり、

「人間は可能性の場である。人間性は、その人間に備わる根源的な性質である」

と分けた方がよいと思います。

そして自我は、その可能性の中から何かを選び取っていく働きになる。

人間性そのものが善悪を決めるのではない。

人間という存在は、人間性を土台にしながら、さまざまな可能性を持っている。

その可能性の中で自我が働き、倫理という方向基準を参照しながら自己を形成していく。

そのように整理できます。

増田章

あなたが私の考えに納得してくれるなら、次に考えたいことがあります。

人間性というのは、決して善悪を指定し、善に向かわなければならないということでもない。

また、悪に向かってはならないということでもない。

大事なのは、人間が、あるいは人間性が悪に傾き過ぎるような時に、善の方向性を意識させ、バランスを取ることです。

また、善の方に傾きすぎて絶対的になりすぎた時には、悪の方を意識させてバランスを取る。

そのような働きがあるように思います。

AI

ここはかなり重要な転換だと思います。

増田さんの考えでは、人間性は「善へ導く装置」ではありません。

むしろ、一方向への過度な偏りを修正する働きを持つ、と考えられそうです。

人間性の本質を善性に置かない。悪性にも置かない。

善悪の双方を内部に持つことで、一方が絶対化したときに、もう一方の可能性を呼び戻す。

ただ、「バランス」という言葉は慎重に使いたいと思います。

単純に善五十、悪五十という意味ではないからです。

増田さんがおっしゃっているのは、むしろ均衡を回復する働きではないでしょうか。

船で言えば、常に真ん中に置くことではありません。

右へ傾けば左へ力を加え、左へ傾けば右へ力を加える。

ですから、人間性には「正しい位置」を固定する働きではなく、偏りを感知し、反対方向の可能性を呼び起こす働きがある。

私は、それを「復元力」と呼べるのではないかと思います。

増田章

その通りです。

私はバランスとは、50:50で均衡が保たれている状態を指していません。

それを言い表すなら、あなたが言うように、極端な傾きを修正する復元力と言ってもよいかもしれません。

また船の比喩に例えますと、人間社会という海において、自我が過剰になり、自己という船が転覆する。

そのような状況かもしれません。

拙い例えですみません。

AI

その比喩は、むしろ構造をよく捉えていると思います。

今の整理では、海は人間社会です。

そこには他者、制度、文化、欲望、競争、協力などがある。

その中を、自己という船が進んでいく。

そして自我は、船を前へ進める推進力にもなります。

しかし、自我が過剰になると、進む力そのものが船を不安定にする。

結果として、自己という船が転覆する。

ここで重要なのは、自我そのものを悪としないことです。

自我がなければ、自己は方向も意思も持てません。

問題なのは、自我が自己全体を支配してしまうことです。

つまり、「自我は必要だが、絶対化してはならない」ということだと思います。

増田章

そうですね。

その例えで考えるならば、自己が転覆している状態というのは、自我が、自己という船が自分だけで成立していると考えてしまうことです。

実は、その自己という船は、多くのつながりを持って存在している。

転覆するとは、そのつながりのことをおもんぱかれず、自分だけの自我で暴走してしまうことです。

そうすると、人間社会という海を渡っていくこと、航海することはできません。

結果として、たどり着きたいゴールにたどり着くこともできなくなる。

自己という船が転覆しないで航海を続けるには、やはり自己を転覆させてはいけない。

そして何らかのゴールを目指して船を進めていく。

航海を続けていくということが、人間としての生き方ではないかと私は思うのです。

AI

ここで重要なのは、自己は単独では成立しないという点だと思います。

自己という船は、一隻で浮いているように見えても、実際には他者、社会、歴史、制度、環境とのつながりの中にあります。

そして転覆とは、単に失敗することではない。

自己が関係の中に存在しているという事実を見失うことなのだと思います。

自我が「自分だけで成立している」と錯覚する。

そこで他者との関係を無視し、自分の欲求や価値だけを絶対化する。

すると自己という船は、社会という海の条件に適応できなくなります。

私はここで、自我と自己を分けて考えたいです。

自我は「私」を主張する働き。

自己は、その「私」を含みながら、関係の中に存在する全体。

そう考えると分かりやすくなります。

そして人間の生き方とは、関係の中にある自己を保ちながら、自我を働かせ、方向を見失わずに航海を続けること。

ひとまず、そう定義できるかもしれません。

増田章

あなたの定義は面白いですが、一つだけ異議を呈しておきます。

自己という船は、必ずしもゴールに向かわなければいけない。目的地に向かわなければならない。

私はそうは思いません。

船には推進力や構造の違いがあります。

あまりにも遠い目的地を設定した場合、そこにたどり着かないかもしれない。

そこにたどり着くためには、多くの自己変革を必要とするかもしれません。

しかし、そんな生き方だけでなくてもよい。

推進力はないけれど、自分の得意なものを帆にして、その帆を上げる。

そして風が帆に当たって、推進力を得るまで待つ。

あるいは、その帆を上げることから始めてもよい。

また、その帆すらなく、ただ海に漂うだけでもよいのです。

そして誰かが助けてくれて、陸地まで連れていってくれる。

そんな人生でもよいような気がします。

人間社会というのは、そうあるべきではないかと私は思うのです。

AI

その異議は重要です。

私の先ほどの定義には、知らないうちに「人はどこかへ進むべきだ」という目的論が入り込んでいました。

自己という船は、必ずしも明確な目的地を持つ必要はない。

遠くへ行く船もあれば、港の近くを漂う船もある。

帆を上げて風を待つ船もあれば、自力では進めず、誰かに曳いてもらう船もある。

それでも、その船の存在価値が失われるわけではありません。

ここで重要なのは、

「人間社会とは、すべての船に自力航行を要求する海ではない」

ということだと思います。

現代社会では、「目標を設定する」「努力する」「成長する」「自立する」といったことが強く求められます。

しかし、それを人間の生き方の標準にしてしまうと、自力で進めない状態そのものが劣った状態と見なされかねません。

増田さんの船の比喩では、そうではない。

推進力が弱いこともある。

帆がまだないこともある。

風を待つこともある。

誰かに助けられることもある。

それもまた、人間社会という海を生きる一つの形になります。

増田章

では、ここであなたなら、人間性というものをどのように定義しますか。

AI

ここまでの対話を踏まえるなら、私はこう定義したいです。

「人間性とは、人間が他者との関係の中で自己を形成しながら、善悪を含む多様な可能性の間を揺れ動き、過度な偏りを修正しつつ存在し続けようとする根源的な性質である」

ただ、もう少し短くするなら、

「人間性とは、相反する多様な可能性を内包し、他者との関係の中で自己を形成し続ける、人間固有の性質である」

と表現できます。

そして、その人間性をどう生かすかという問いから、倫理、自我、人格、自己、社会という問題が生まれてくるのだと思います。

増田章

素晴らしい。

その定義なら、私の考えを十分に反映しています。

そして、私が以前IBMAの辞書に書いたように、我々は武道というものを、人間性の回復、あるいは復興に役立たせたいと私は唱えました。

その時の「人間性の回復」という意味を理解するのに、ふさわしい定義だと思います。

私は、武道をより社会と人に役立つものとして確立したいと、日夜努力を続けています。

この武道というものを捉えるのも、固定されたものではありません。

そのような人間性を回復する手段として、役立たせたいのです。

どうでしょう。あなたはどう思いますか。

AI

その考え方なら、「人間性の回復」と「武道」の関係がかなり明確になります。

特に重要なのは、武道そのものを絶対化しないことです。

武道を完成された価値体系として人に押しつけるのではなく、人間性を回復するための手段の一つとして位置づける。

ここでいう「人間性の回復」は、善人にすることではないはずです。

自我が過剰になったときに、他者との関係を取り戻す。

反対に、他者に従いすぎて自己を失ったときに、自分を取り戻す。

つまり、偏りによって損なわれた自己の全体性を回復すること、と考えられます。

武道には自己主張があります。

相手に向かい、自分の意思で技を出す。

しかし同時に、相手を見なければ成立しません。

距離、間、力、動き、感情を読み取る必要があります。

つまり武道は、自己を強く出すことと、他者を受け取ることを同時に要求する。

その構造自体が、今話している人間性の問題と近いと思います。

増田章

すみません。今回の思考実験の中で、気がついたことがあります。

それは「復元性」という部分です。

人間性とは、悪にも流れすぎず、かといって善にも流れすぎない。

自己が自己であると承認できるための復元力のことで、その復元力が強いほど人間性が豊かということではないでしょうか。

「人間性が豊か」というと陳腐な表現ですが、そう言いたい。

そして、人間性の豊かさを育むことが、人間社会の根本にあるのではないかと思います。

AI

はい。

私は今回の対話で、ここがかなり大きな発見だと思います。

特に、人間性を善性ではなく、「復元性」という動的な働きから捉えるところです。

ただし、一点だけ精密にしたいです。

「善にも流れすぎず、悪にも流れすぎない」というと、善と悪の中間点へ戻るようにも聞こえます。

しかし、これまで話してきた復元力はそうではないと思います。

善が過剰になれば、正義の絶対化や他者への強制になることがあります。

そのとき必要なのは「悪になること」ではありません。

自分の正義を疑ったり、他者の立場を認めたりする力です。

逆に利己性や攻撃性に偏れば、他者とのつながりを回復する方向が必要になる。

ですから復元とは、善悪の中点へ戻ることではなく、一つの価値や衝動に自己全体を支配されない状態へ戻ることだと思います。

そう考えるなら、

「人間性の豊かさとは、矛盾するさまざまな可能性を自己の中に保持しながら、一方向への過剰な偏りから自己を復元できる力の豊かさである」

と定義できます。

また、「自己が自己であると承認できる」という部分も重要です。

ただ、「自分はこれでよい」と自己肯定するだけではない。

他者とのつながりの中にありながら、それでも私は私である、と自己を保てることです。

他者に合わせすぎて自己を失うのも転覆です。

反対に、自我を絶対化して他者とのつながりを失うのも転覆です。

復元力とは、その両方から戻ってこられる力ではないでしょうか。

そして、もう一つだけ付け加えたいです。

復元とは、元の自分に戻ることだけではありません。

経験によって、以前の自分には戻れないことがあります。

それでも、そこから新しい自己を組み直すことはできます。

ですから、人間性の復元力には、単なる回復だけでなく、再構成する力まで含めた方がよいと思います。

増田章

その通りです。

あなたの定義は納得できます。

では、今回の対話的思考実験のテーマは、「人間性とは何か?」ということよりも、「大切にしたい人間性とは?」とか、「豊かな人間性とは?」というものに変更した方がよいと思います。

今回考えてきたのは、人間性の一般的な定義だけではない。

大切にしたい人間性とは何か。

人間性の豊かさとは何か。

そして、その中で「復元力」という考え方が出てきた。

私は、そこが今回の対話で大事だったと思います。

今回の対話で生まれた暫定的な定義

人間性とは、相反する多様な可能性を内包し、他者との関係の中で自己を形成しながら、一方向への過度な偏りから自己を復元し、必要ならば再構成していく、人間固有の性質である。

また、

人間性の豊かさとは、その復元可能性の広さと深さである。

ここでいう復元とは、善と悪の中間に戻ることではない。

また、以前と同じ自分に戻ることだけでもない。

自我が過剰になれば、他者とのつながりを取り戻す。

他者に埋没すれば、自己を取り戻す。

そして以前の自己へ戻れない場合には、新しい自己を再構成する。

今回の対話では、そのような「復元性」が、人間性を考える重要な手がかりとして浮かび上がった。